蠍は留守です記

蠍の不在を疑わずに眠る暮らしの記録

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旅とわたし:金沢(日本)

このエントリは『旅とわたし Advent Calendar 2016』の19日目です。

はじめて金沢に訪れたとき、私はいろいろなことに倦んでいて、どこか遠くに行きたいという気持ちばかりが募っていた頃だった。「どこか」というそれが、どこかわからないままに。

夕暮れの西茶屋街

前日くらいに急に思い立って、夜行バスで金沢に向かった。特に吟味することもなく買ったガイドブックだけを持ち、早朝の駅前に降り立った。まだお店も開かないうちから、やみくもに歩き回った。ただただ歩きたかった。ガイドブックは地図帳以外の意味をほとんど持たなかった。

移動し続ける、というのは特別な行為だ。バスに乗って市内を巡っているとき、履き慣れたスニーカーで石畳を歩くとき、わかってくることがある。そのときは、歩いても歩いてもまだわからないことばかりで、どれだけでも歩き続けることができた。

逆光の東茶屋街

金沢に再訪したい理由を挙げるとすると、そのときの自分の足取りをもう一度なぞらえに行きたいという気持ちと、今度はゆっくり(例えば夫婦で普通の観光に)行きたいなという気持ちのふたつがある。

なんだかんだ言って、金沢には行こうと思えばいつでも行けるし、仕事絡みで行ったこともある。今はいつでも行けると思える場所だが、しかし当時はどこか遠い場所のひとつに思えた。どこか遠い場所を歩くという行為が、当時の私には必要だった。

金沢城で芸者さんが踊る

その夜はたまたま兼六園のライトアップが行われていた時期で、まるで鏡のように木々を映す池や灯る灯籠を眺めていると、心も静まるようだった。

歩き続けた昼間。動かない水面を見つめながらじっと佇む夜。そしてまた、歩き出す。

鏡のような水面の兼六園

衝動的に訪れて、歩き回って、自宅に帰る。

感じたのは、自分が歩いてきた場所は「どこか遠い場所」なんかではないということだった。あっさり帰ってきてしまった自分に対して拍子抜けする気持ちだったし、倦んだ思いなど、いい意味でどうでもよくなってしまった。

ストレス解消と言えば簡単に聞こえるし、救われたと言えば大袈裟に聞こえる。前者と後者のグラデーションや相対位置はとても曖昧なもので、ほんのちょっとのバランスで毎日の色合いが変わる。

どんな色合いのとき、人は「どこか遠く」に行きたくなるのだろう。また同じ色合いを見ることはあるのだろうか。

兼六園でライトアップされた灯籠

だから金沢という場所には、なんとも言えない不思議で個人的な感情を持っている。好きだとか暮らしたいとかそういう気持ちとは別の、もっと親密なものだ。

あのときたまたま選んだだけの場所なのに、私の人生の風向きを変える舞台になり、心にずっと残る風景になった。だから旅はおもしろい。


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