蠍は留守です記

蠍の不在を疑わずに眠る暮らしの記録

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旅とわたし:リヨン(フランス共和国)

このエントリは『旅とわたし Advent Calendar 2016』の21日目です。

リヨンはフランス南東部にある歴史ある街だ。先日紹介した金沢と同じく、街をふたつの川が流れている。海が好きで海の街を多く紹介してきたが、川が流れる景色を同じくらい愛しており、リヨンも例外ではなく美しいと感じる街だ。

昔から、川が流れる景色を見ると心が穏やかになる。海を見るときのような高ぶりや心楽しさではなく、流れの心地よさに身を委ねるような落ち着いたうれしさに満たされる感覚がある。

リヨン・サン=ポール駅

はじめてリヨンの地を踏んだとき、私は胸に『人間の土地』をかたく抱きしめていた。もちろん、堀口大學氏の訳本である。『人間の土地』を知らない人でも、それを書いたアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリを、引いてはサン=テグジュペリの書いた『星の王子さま』を知る人は多いだろう。

リヨンはサン=テグジュペリの出身地だ。陸路でリヨンに入る列車で、彼の作品をずっと読み返していた。私の死生観に影響を与えた作家が生まれた土地を、いささか感慨深い気持ちで踏んだのを覚えている。

フルヴィエールノートルダム大聖堂の裏側

ソーヌ川近くの宿を取り、新市街から旧市街へとよく歩いた。川岸近くから見上げると、ノートルダム大聖堂がよく見える。ノートルダム大聖堂はフルヴィエールと呼ばれる丘にある。込み入った路地をぐるぐると歩き、サン・ジャン大聖堂の前をかすめ、山道と行っていいくらいのきつい斜面を黙々とのぼって、ようやく大聖堂に辿り着く。

大聖堂では、教会のガイドさんにフランス語で案内をしてもらったり、上品かつ真剣に会話を交わす老紳士たちを眺めて時間を過ごしたり、知的な雰囲気に包まれながらふわふわとそれを味わった。街の人々のやり取りや佇まいが静かで落ち着いていることが、とても好ましかった。

フルヴィエールの丘から見た市街

私が人にサン=テグジュペリを勧めるときには、『人間の土地』『夜間飛行』『星の王子さま』の順番で読むことを推している。その順で読めば、エッセイから小説へ、小説から寓話へ、そんなふうに視点を移行していく楽しみを味わえるからだ。

具体と抽象を行き来する視点の変化は楽しい。同じように、まったく別のことではあるが、山の視点から川の視点に変化する散歩も楽しい。山道のような坂をゆっくりのぼりながら、また、勾配のきつさに思わず小走りになりそうに下る足を運びながら、目に見える景色の移ろいと思考の移ろいに身をまかせる。

歩くことは、考えることそのものなのかもしれない。

フルヴィエールヒルの路地

何を見ても、何か思わされる。そんなゾーンに入ってくると、感受性が過敏になってくる。歩きながら、まるでちょっと酔っているみたいに、ふわふわしていた。ソーヌ川に沈んだ自転車を見つけ、地中海に沈んだテグジュペリの偵察機に思いを馳せるほどに。

あんたの目から見ると、おれは、十万ものキツネとおんなじなんだ。だけど、あんたが、おれを飼いならすと、おれたちは、もう、おたがいに、はなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、この世でたったひとりのひとになるし、おれは、あんたにとって、かけがえのないものになるんだよ…

『星の王子さま』より

川底に沈んだ自転車は、何の変哲もない自転車なのだろう。なぜそこに沈んだのか、そんなことは知らない。けれど、あのときの私がその自転車を見かけたことで、その自転車はかけがえのない思い出のひとつになって、まるで自分の人生の中で大きな存在であるかのように思い出されることがあるのだ。感傷的にもほどがある。

ソーヌ川に沈んだ自転車と白鳥

リヨンにもう一度訪れたいと思う気持ちは、またあの土地でサン=テグジュペリの著作をゆっくりと読み返してみたいと思うことから来ると強く感じる。本なんてどこで読んだって同じだろうと思うかもしれない。しかし、あのときの知的に満たされた気分、不思議に感じ入ったことのひとつひとつ、それが私の中に染み込んでいるのだ。

水よ、そなたには、味も、色も、風味もない。そなたを定義することはできない、人はただ、そなたを知らずにそなたを味わう。そなたは生命に必要なのではない、そなたが生命なのだ。そなたは、感覚によって説明しがたい喜びでぼくらを満たしてくれる。そなたといっしょに、ぼくらの内部に戻ってくる、一度ぼくらがあきらめたあらゆる能力が。そなたの恩寵で、ぼくらの中に涸れはてた心の泉がすべてまたわき出してくる。

『人間の土地』より

私はあの街で、心に染み込む水を飲んでしまったのだ。あの街だから感じることができる種類の水を、うっとりと味わってしまったのだと思う。


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